数年前のことですが。
のちに動物看護師の資格を取った娘は
ある大学の獣医学部に類する科に入学しました。
ある日、帰宅したあと
その日の講義のことを話してくれました。
その内容を聴きながら、
見せてくれた資料を読みながら……
私はちょっと衝撃を受けました。
授業は《安楽死》から学び始めるのですが
その倫理たるや、徹底した内容でした。
命を救うことと、その命をいただくこと。
両方の命の、倫理観を学ぶ……。
娘は詳しく話さないけれど、
のちの解剖の学習では
学生達が実際に動物の安楽死にも
携わることになるのです。
「獣医は畜産の仕事にも通じるんだから、
こういうのも学ぶことは当然だよ」
と娘はわざと、さらりと言ったけれど。
ニンゲンの看護師の自分は、
この時かなり衝撃でした。
昔の私は、看護師としてまず
『救命』だったり
『死を迎える人』に対する
学びを受けました。
生を最後まで諦めないこと、が前提になる
知識や技術やたくさんのこと。
最後まで命を守る尊い仕事、と
心から思っていたし
看護学校を卒業してからも
『命は救うもの』
それが当然で、最善のことと疑いもせず
ずーっと働いてきた。
緊迫した現場が続いても
命を救うためだけにまっすぐな時間は、
やりがいを感じた場面もたくさんあります。
健康は…とか命とは…
なんて話も、本当にたくさん
患者さんとしてきたはずだけど。
ああ、私は《人間中心の命》しか
見えていなかったんじゃないの?
って、今さらだけど思ったんです。
生きていくためには、もちろん
綺麗ごとだけでは過ごせないです。
肉も野菜もお菓子だって、
おいしいものには目がないし。
「いただきます、は命をいただくことだよ」なんて
自分が子供のころに
ひいばあちゃんから言われたことを
勝手に請け売りして。
家族で食事の時には
わかったような顔で子どもにも話して
伝えてきたつもりだったけれど。
せっかく手にしたはずの食べ物を
時には冷蔵庫で腐らせてしまったり、
鮮度が落ちたからとごみ箱に捨てて
見なかったことにもする。
皮製の財布も、昔、親からもらった象牙の印鑑も
これまた当たり前のように、持っている。
だけど
いつから動物の中でニンゲンだけが
ほかの命の行き先を
決めてもいいようになったのかな?
と、本当に今さらですけど
深くは捉えていなかったことに気づいて。
いろんな価値観があるとは思います。
ただ、私はことさら、
職業でも長く《いのち》というものに
向き合ってきたはずなのに。
訳知り顔で、何十年もの間過ごしてきた
自分のことが情けないような気持ちで
心がずんと重くなって、
たくさんのことを考えさせられました。
きびたの気持ち
今日、おかあさんとお客さんが話してた。
ボクのことなんか忘れたようにおしゃべりしてた。
…ね?なんだか話が難しいよね。
ボクは、ほとんどわからないんだけど。
まあいいか。
明日もいい日になりますように。